ヘルプ

  • 88

写真:

写真: 11.05.02.江戸川公園(文京区関口)大井玄洞翁胸像

屋敷跡南西角。背は豊島区。

古地図だとここはちょうど東隣の小笠原信濃守サン家との境で。右手は小笠原信濃守サン家。豊岡稲荷の小さな境内……元来の位置なのか、少しでも東に移動してきたのか。地図重ねや古地図にズレがあるのか……。




mixiアルバム「豊川稲荷/大岡主膳正 (文京区目白台1丁目)」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000081622555&owner_id=32815602
2013年03月19日 21:38

●13.03.19.
特筆なしwwwwwwww
「豊川稲荷(港区元赤坂)/大岡越前守忠相」参照
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000056956332&owner_id=32815602


●大岡主膳正――
大岡岩槻家。岩槻藩大岡家。忠房系大岡家。大岡忠房家。
(大名家として)
初代、忠光、従五位下・出雲守、従四位下
大岡忠房家4代。
宝暦元(1751)年、上総国勝浦1万石。宝暦(1756)年、武蔵国岩槻藩2万石。
2、忠喜(ただよし)、従五位下・兵庫頭
3、忠要(ただとし)、従五位下・式部少輔
4、忠烈(ただやす)、従五位下・丹後守
?、忠正、従五位下・主膳正
?、忠固(ただかた)、従五位下・主膳正
7、忠恕(ただゆき)、従五位下・兵庫頭
?、忠貫(ただつら)、従五位下・主膳正


「大岡氏」の初代当主は、戦国時代、三河松平 広忠へ仕えた忠勝とされている。
氏は、鎌倉時代、関白 九条忠教が三河国八名郡大岡郷に住み、名字を大岡と称したのが始まりといわれる。はじめ、神職だったとされる。(大岡明神・大岡白山神社)

・宗家初代、忠勝
2代、3男 忠政(主君家康)
3代、次男 忠行(長男忠俊は関ヶ原で戦死)
4代、養子 忠種(忠政3男 忠世の長男)
※忠世は分家。4男 忠吉も分家。3家に分かれた旗本家系。
5代、長男 忠方
※忠種次男 忠英(ただふさ)が、上役の大番頭 高力忠弘を口論の末殺害。のち自刃。
これによりお家断絶(元禄9(1696)年)。一門閉門処分となる。(大岡忠相の従兄にあたる)

※閉門――門扉、窓を閉ざし、昼夜とも出入禁止。逼塞(昼間出入り禁止。30日間また50日間)より重罪。蟄居(一室に謹慎。蟄居・蟄居隠居・永蟄居とある)より軽罪。

・大岡忠世家
2代、次男 忠真
3代、養子 忠相(忠吉家3代 忠高の4男)
※大名に取り立てられ、こちらが宗家となる。
元宗家も許され、旗本として復帰している。忠行家、大岡本家。しかし8代で断絶。

●大岡忠房家
初代、(忠吉4男)忠房
4代、(3代忠利長男)忠光
(忠相は親戚。伯父? 親交もあった。父が同年代)

●大岡忠光――
宝永6(1709 ※正徳2(1712)年説)〜宝暦10(1760)年。300石の旗本。
享保9(1724)年8月、後の9代、家重の小姓となる。以後、ずっと家重の側近として務める。
享保12(1724)年、従五位下・出雲守。
享保18(1733)年、800石の地方知行取り。
延享2(1745)年、家重 将軍就任。
幼児期より家重に近侍していた忠光は、不明瞭な家重の言葉を唯一理解できたため、その側近として異例の出世を遂げた。
宝暦元(1751)年、上総国勝浦1万石を領す大名となる。
宝暦4(1754)年、奥兼帯の若年寄に。5千石加増。
宝暦6(1756)年、吉宗に廃止された側用人に就任。従四位下従位。5千石加増。都合2万石を得て武蔵国岩槻藩へ移封。

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。